- 2019.09.24
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ある夏の日。
眠りに就いた街をよそに駅はまだ煌々と明かりを灯している。
ある夏の日。
深夜のホームに少年は立っている。
浮き立つ少年を母親が何度もたしなめているようだ。
しかし耳に届いてる様子はない。機関車のブロアの轟音に続いて、電源車の唸りとともに青い車体がホームへ滑り込んできた。さらに浮き立つ。当時、優等運用からほぼ退いていた車体は、かなりくたびれていたはずだが、ホームの明かりに照らされたその姿に老いは微塵も感じられない。開かれた扉から車内へ入る。瞬間、まるで魔法の箱にでも入ってしまったかのようだ。
汽笛一声。
列車は闇夜へと進んでゆく。
発車の衝撃は全くない。深夜の車内は既に寝静まっている。母に小声で注意される。静かになさい、と。母が上段、少年は中段、父は幼い妹と下段へそれぞれ潜り込んだ。今にして思えば、幅52cmのベッドで妹の添い寝をしたのだから、父は相当に窮屈な思いをしたに違いない。
早く寝なさい。母がまた小言を言っている。魔法の箱に入り込んだ少年がそうそう簡単に眠れるはずもない。窓を流れる見知らぬ街の灯りをカーテンの隙間から飽きることなく眺めていた。
旅先での少年の朝は早い。ベッドから抜け出し、まだ眠り醒めやらぬ車内を後ろ後ろへと向かってゆく。
展望室へ入った途端、射し込む朝陽に一瞬目が眩んだ。誰が置き去りにしたのか、コーヒーの空缶が窓際にポツンと一つ残されている。去ってゆく見知らぬ土地の景色をしばし堪能して戻ると、ちょうど父が起き出しているところだ。おまえ、どこへ行って来たのだ。展望室のことを興奮気味に話すと、眠い顔に笑いを浮かべながら父が言う。そうか、よかったな。
たしか小学校3年生の夏休みだったか。
いつしか大人になり、あの夏の日を思い返している。
心浮き立つような、心ときめくような夏の日が、めくるめく今も昨日のことのように思い出される。午前7時過ぎ、大阪定刻。
ホームに降り立った途端、少年は気づいた。魔法は解けてしまったのだと。